根本さんに教わったこと

2025年3月、根本幸児先生は北海道大学を定年退職されました。

私の師匠の一人であり、多くの「物理感」や、研究者としてのいろはを教わりました。正直、自分でも予想していなかったほど、今、大きなロス感のまっただ中にいます。この感覚は誰かに伝える必要はなくて、自分の中で大事にしておきたいと思うのですが、それとは別に、「教わったこと」は私自身が後世に引き継ぐべきことでもあると思ったので、ここに記します。

私は常々言っている?ように「最終講義マニア」であります。最近はあまり足を運べなくなりましたが、これまで多くの最終講義に参加してきました。最終講義は何のためにあるのかは、よくわかりません。退官される先生が思い出話を長々と語る場合もたびたび見てきて、残される者として、それはそれでよいと思うのです。ただ、時にやや不快な物言いに出会うこともあります。それを根本さんから聞くことになると嫌だなぁと一抹の不安をいだきながら、今回も根本さんの最終講義に足を運びました。これは、私が教わったことの「答え合わせ」でもあったのです。

「福島さんとこの問題をやりました」

答えは正解でしたよ。「くん」じゃなくて「さん」になったのは、私が歳を取っちゃったからですね。多くの先生が「〇〇くんにこれこれをやってもらった」と語ります。もちろん学生さんへの敬意を表しているとは思うのですが、やはり「やってもらった」なのです。上から目線で学生を見てるんですよ。そこで「やってもらった」のに成果がでないとその場で紹介されないのですよ。でも、根本さんはそうじゃなかった。「一緒にやった」って言ったのです。

根本さんにはね、自分のわかる/わからないの境界線を少しでも未知の方向に動かしていきなさいと言われてきたように思っています。大事なことは、「それがたとえ人類の英知の境界でなくったっていいじゃないか、どうせすぐに、君の境界は人類の境界になるよ」ってことなんです。そして、「君の境界は君しか知らないんだから、君にしか動かせないし、それが人類の英知の内側としてもそんなことに遠慮することなく動かしていけばいいんだ」と言われた気がしたのです。

現代的には「甘い」かもしれません。だけど、研究とは本来、自由な「無知との戦い」であって、誰かに支配されるものではない、たとえそれが指導教官であっても。だから、学生が行う研究も「やらされる」ものではなく、「自分でやる」ものなのです。いや、まあ「やってもらった」の反対語は「やらされた」ではなくて、「やってあげた」なんでしょうけどね。いずれにしても、「やってもらった」の周りには「一緒にやった」は含まれないのです。

もっとも、学生のする研究なんかすぐにあらぬ方向に行っちゃうので、それをコントロールするのがスタッフの役割なのでしょう。実際、私も遺伝アルゴリズムの沼にはまっていたわけで、そこから引き戻して交換法に導いてくれたのは根本さんでした。最終講義の次の日の研究会で、交換法のできた経緯を根本さんと共有できたのはよかったです。それは「一緒にやった経緯」でもあったのです、根本さんも忘れてたみたいだったけど。その経緯が辿れたのは、当時のセミナーの発表レジュメに日付がついていたからです。とても大事なことですね。

根本さんの最終講義を聞きながら思い出したもう一つの大切なこと、私も大きく影響されたことですが、それは「簡単に納得しない」という姿勢です。根本さんが博士課程にいた頃は、ちょうどレプリカ対称性の破れが理論として構築された時期で、それが物理学としてどのように理解すべきか、その納得感を徹底的に探求したのがNemoto-Takayamaの一連の研究でした。数理物理として証明するのは一つの王道ですが、それはあまりに難しい。とはいえ、計算手法としては理解できたけだけでは不十分で、それが本当に正しいのか、それは何を意味しているのか、そうした問いを持つのが物理学の視点です。

「わかった気がするか?」という問いはいつも難しい問題です。しかも、この「気」は人に依存するという点でwell-definedではないです。それでも、そこを問いたいのが、ちょっとアホな物理学者ですね。完全に数学的に証明なんかできなくても、強く信じられるのですよ。なぜなら、あれもこれも、あっちともこっちとも整合が取れているなら、これが間違いならあれもこれも引きずられるけど、そんなことはないよねっていう知の網を構築してるからです。これが物理学者の強いところです。このわかった感が構築する網は人に依るんです。de Gennesみたいな巨人の網は破れないのですけど、私くらいだとたびたび網は破れちゃうんですけどね。ここに穴があくのか…というのもまた楽しいことではあるのです。

納得感に関係するけど、私がグラフをじっと眺めるのが好きなのは、根本さん譲りかなと勝手に思っています。グラフって見てるといろんなことがわかるというか、味わいが出てくるんですよね。数値計算なんかやってると、数値しか出てこないので、そこから「わかった感」を引き出すにはグラフにして見入るしかないのです。数値には味ないけど、グラフには味わいがあります。グラフは描くだけだと思っている人が多いのは残念です。あれは絵画並みに楽しめます。

とりとめのない文章になりましたが、結局、根本さんから教わったことを一言でまとめてしまうと「研究は自由で、楽しくて、なんならビール飲みながらでもできる」ということかもしれません。そして、「教わったことは引き継ぐこと」だと考えています。だから、これから大学院に進まんとするみなさんには、少なくとも、うちの研究室には「なにかをやってもらう」ことが待っているとは思わないでほしい。「面白い研究を一緒にやりましょう」ね、ビールでも飲みながら。